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私は金の聴診器を持っています。

どうやってこの金の聴診器を手に入れたかお聞きください。

 

私が奈良県立医大第一内科に在籍していたもう30年以上前の話です。

当時、附属病院と研究棟は別棟でその間は数十メートル離れていました。

その間を歩いて移動するのですが、途中に小さな池がありました。

ある日その池のほとりを歩いていた時のことです。

不注意にも白衣のポケットに入れていた聴診器を池に落としてしまったのです。

「しまった」と思いながら池の中を覗き込んでいましたら、池の中から白いドレスに身を包んだ女神の様な女性が現れました。

その女性は私に

「あなたの落とした聴診器はこの鉄の聴診器?この銀の聴診器?あるいはこの金の聴診器?」

と尋ねました。

「私が落としたのはアルミの聴診器です」

と答えますと、その女性は一瞬ムッとした面倒くさそうな表情になりましたが、すぐに気を取り直して

「あなたは正直なドクターです。ご褒美にこの金の聴診器を差し上げましょう」

とこの金の聴診器をくれました。

世の中には不思議なことがあるものです。

(2021年4月1日)

 

コロナウィルスパンデミックの影響で多くの学会は会場とオンラインのハイブリッド方式になりました。

専門医などの資格を維持するために学会参加が必要なのですが、従来は実際の会場に行くしか方法がなく、土曜日の診察終了後飛行機で羽田に向かいそのまま東京あるいは横浜で宿泊し、日曜日の朝から学会場で発表や講演を聴講し夕方の飛行機で大阪に戻るといった強行軍が当たり前でした。

しかし昨年はオンラインで聴講し、それで専門医が更新できたので本当に楽でした。

また、地方で製薬会社主導で行われる研究会は多くが中止になっています。

多くの先生は今後もオンライン形式を歓迎しています。

しかし一方それを残念に思う声もあります。

大きな学会特に全国規模の学会や国際学会は勤務医時代は一種のお祭りでした。

学会そのものもさることながら、普段は縁遠い地域や国を訪れついでに観光や地域のグルメを楽しむことが日頃の研究活動に対するささやかなご褒美と考える向きもあったと思います。

大学院の頃は学会は発表の場でした。

実験や準備にかなりの時間を割いて医局での予行演習では上司の厳しいご指導を頂き、それが終われば学会は終わったも同然であとは旅行気分でした。

ビル・ゲイツが指摘したようにこれからは学会などの出張の過半数はなくなるのでしょうね。

薬を規則正しく内服して頂くことは、治療がうまくいくかどうかの重要なポイントです。

しかしなかなかうまくいかないことも多いのが実情です。

もう10年以上前ですが、一週間分の内服薬を小分けして収納し飲み忘れを防ごうと作られた週間薬ケースをたくさん仕入れてクリニックでお配りしたことがあります。

認知機能の低下された方を中心にお役立て頂きました。

どの程度効果があったのかは定かではないのですが一定の効果はあったと思っています。

 

ある日、軽度認知機能障害と診断されたご高齢の女性に診察室でこの週間薬ケースをお渡ししました。

『このケースを使って飲み忘れをしないようにお願いします』

と手渡すと、その方は目を丸くして

『先生、先月もこれくれたよ。その前もくれたよ。忘れたのか?』

 

失礼しました。

 

大阪生まれ大阪育ちで子供の頃から吉本新喜劇を観て育ちました。

今でも土曜のお昼の番組をタイマー録画して観ています。

古くは岡八郎さんや花紀京さん、最近ではすっちーさんや吉田裕さんがお気に入りで特に『乳首ドリルすな!』というギャグにはお腹を抱えて笑っています。

ところでクリニックを訪れてくれる製薬メーカーの情報提供員の中にA君という好青年がいました。

私と同様に吉本新喜劇の大ファンで、ある時診察室で新薬の紹介が終わった後に吉本新喜劇の話で盛り上がったことがあります。

共に吉田裕さんのファンで

『乳首ドリルすな!』っていうギャグ、最高やな!

と意気投合し、いつか一緒になんばグランド花月に行こうと約束しました。

A君と私が吉本新喜劇の話で盛り上がった数日後、A君が大阪市内のレストランで食事をしていると偶然隣の席にあの吉田裕さんが座っていたそうです。

興奮した彼はそのことを私に一刻も早く伝えたかったのでしょう。

翌日、クリニックの待合室で患者さんやクリニックスタッフのいる時に入って来るなり大きな声で

『先生!昨日、先生の好きな乳首ドリル見ました!』

 

言葉は省略せずに話して欲しいものです。

学会の専門医制度が始まったのは私が奈良県立医科大学を卒業する昭和62年の少し前だったと思います。

現在は専門医を取得することが医師になってからの必須の研修コースで、専門医資格がないと日常業務に支障をきたすこともあります。

しかし当時は専門医資格を取得することの意味合いも不明確で、特になくても困らないものでしたから取得しない医師も珍しくありませんでした。

私の場合は当時の奈良県立医科大学第一内科の同僚が受験するので卒後5年目に一緒に受験し認定医の資格を取得しました。

順序としては内科認定医→総合内科専門医または各領域の専門医(例えば循環器専門医)と受験資格ができ取得する流れになります。

内科認定医資格を取得した翌年に学位を取得した私は専門医資格の取得をせずに医局から派遣された病院で勤務をしていましたが、そろそろ循環器専門医も取得しないとと考え平成11年に必要書類を提出し受験しました。

もちろん初めの受験で当時は過去の問題集などありませんでしたが、どうせ毎日している仕事のことなので簡単だろうと何の準備もせず試験会場に入りましたが、いざ試験が開始し配られた問題を見て驚きました。

冷静に考えれば当たり前のことなのですが循環器専門医試験は循環器内科医と心臓血管外科医が受験する試験です。

試験問題は一定の割合で外科の内容だったのです。

循環器内科の試験だと勘違いしていた私は本当に焦りましたし、もしかしたら不合格かも知れないとも思いました。

答えられる問題だけを答えました。

結果的には合格していたのですが、終わった時には思わず

『参った!』

と独り言を言ったほどです。

現在は専門医資格が医師の経歴を測る目安として定着していますし、ほとんどの医師がそれを取得します。

逆に私が先に取得した学位は現在はあまり重視されなくなってきており、欲しいけどなくても困らないという印象です。

学位については、『足の裏についた米粒』と表現する方がおられました。

取れないと気持ち悪いけど取ったからと言って食えない、という意味だそうです。

昭和のころは臨床と同じくらい研究に重きを置いていましたが、医師のキャリアについての考え方も大きく変わりました。

JCS